ちょろぷーの日記

田舎住みホモ(ゲイ )です。日々思いついたことを書き込みます。

これまでの経歴から妄想(高校卒業〜大学学部編)

こんにちは。ちょろぷーです。

 

今回は高校時代から、考えてきたことの変遷を整理していこうと思います。

 

高校はいわゆる進学校でみんな大学受験をする前提で勉強をしていました。自分も大学で研究がしたかったため、理系コースに進み、なんとか現役でとある地方国立大学工学部の化学系に入学しました。

入学した2009年当時、今も続いておりますが、山中伸弥先生の「iPS細胞」に代表されるように、「再生医療」という研究分野が非常にホットで、自分も再生医療に関わる研究がしたいなぁと、なんとなく思い描いて、第一志望の大学は他にあったのですが、当時の自分の偏差値から考えて行ける大学を選択したような感じでした。

 

大学1、2年生の時はなんとか授業でいい成績を治めようと、「鬼仏表」なるツールを用いて(これは代々大学の先輩が作ってきた、授業の単位の取りやすさを示した表で、仏=単位が取りやすい、課題が楽。鬼=単位が取りにくい、課題が難しい。等が示されいる。)授業を選択し、どちらかというと友達との飲み会や遊びに出かけることメインで大学生活を過ごしてきました。

 

そんな中起きたのが、今からちょうど10年前に当たりますけども、3.11東日本大震災でした。当時、大学2年の春休みで、私は仙台で一人暮らしをしていましたので、被害を目の当たりにしました。不幸中の幸い、私の身の回りには大きな怪我をする人間はおらず、物の被害しかありませんでしたが、その日を境に、周りの友人の意識もどこか変わったように記憶しています。

普通に生活できることのありがたみだとか、自分は工学部に入って「ものづくり」を勉強していた訳ですけれども、津波で街が簡単にまっさらにされてしまった状況や、電気の供給をはじめとするインフラの混乱、人々の悲しみなどを目の当たりにして、改めて「ものづくり」が目指すことは何なのかを考えさせられた気がしました。

 

理系は年次が進むにつれて忙しくなるようなカリキュラムで、大学3年から本格的に専門の授業がぎっしり詰め込まれ、実験やたレポートに追われる日々が続いたような気がします。僕はまじめに一つも遅刻や欠席をせずに、授業に出てノートを取り、レポートも締め切り前日までには仕上げるという、大学生にしては珍しいタイプの人間でしたので、友達からは重宝されました(笑)

専門の授業の話は、今となってはほぼ覚えていませんが、こんな考え方だったなー、とか何となくこの用語聞いたことあるなー、程度は覚えているのでそれで十分かなと思います。化学をベースに生物や物理、情報処理など多岐に渡る知識を身に着けることができたのはありがたかったです。

 

4年生になると研究室に配属します。選択したのは、電気化学をベースにしたバイオセンシングなどの生体情報や分析化学を扱う研究室でした。あれ、再生医療はどこいった??って感じですが、当時この研究室では、ES細胞の分化制御や、遺伝子といった分野も手を出していましたので、再生医療に一番近いのはここかなということで選択しました。

与えられたテーマは「microRNA」、「エクソソーム」から面白いことしよう!みたいな感じだったと思います(笑)社会人経験者で博士課程に在籍していた先輩と一緒に研究ストーリーを組み立て、とりあえず血管内皮細胞中の「microRNA」の局在について研究しました。毎日、今流行のリアルタイムPCRをかけで、結果を解析するというような地味な日々を過ごしていました。最初は実験がなかなかうまくいかず、向いていないのかなと思うことばかりでしたが、先輩の支えもあり、なんとか卒業論文は仕上げることができました。

 

研究室生活は思ったよりも充実していたのですが、今考えると、もっと今後自分のやりたいことを具体化しておけばよかったなと思いました。この後、修士課程に進学し、さらに研究を進める訳ですけれども、同時に就職活動も行わなければならず、かなり苦労した思い出があります。あと、自分のセクシャリティについても、まだ当時はゲイということを認めたくないと思っていました。早く認めていれば、この先の人生設計もかなり変わっていたのなと思います。

 

とりあえずこの辺で。